\ この記事の概要を、筆者 が「声」でご紹介 /
Twitterにて、#仲間と作る本 という企画に参加させていただきました。
私のこれまでの人生のなかで、とても心温まった瞬間がいくつかありまして。そのなかの1つをピックアップし簡単な小説風に書き上げてみました。
かなり削ったので、ちょっと場面によっては急展開!なところもありますが(笑)
でも一生懸命、そのときの気持ちを思い出しながら書いてみたので、けっこう長いのですが読んでみてくださいね!
◆◆◆『珈琲の温かさを知った日』ここから◆◆◆
音のない時計の秒針がすぅ~っと泳ぎ、丸く整列している数字の上を軽やかに通りすぎている。
「あぁ・・・もう23時すぎてた。」
シンとした空気のなか私はちょっとかすれた声でそうつぶやいた。
私がいるのは、真っ白でおよそ殺風景な部屋。塾の自習室だ。
軽く伸びをしていると、背後にあるドアがガチャっと開いた。
入ってきたのは180cmを超える身長とすこし小太りな体型、そして迫力のある大きめの顔にふちなしのメガネの中年男性。
その男性はこんな遅い時間にも関わらず声は元気だ。
「やぁっイチノセ君。 今日もしっかりがんばっとるねぇ! でもそろそろここ閉めるぞぉ~。」
その体格にとてもマッチした太い声と、大きい身振りで帰るように促す。
私は身体の向きをかえ、その男性に「はい。きょうもありがとうございました!」と言ってお辞儀をした。
私の名前はイチノセ ハヤト。
受験を通して知った”温かさ”について、ザックリだけど話をきいてほしい。
-Contents-
まるで温まることのできない珈琲
私は昔から学校のような集団生活にはなかなか馴染めないほうだった。
クラスではいつもヤンチャで目立つタイプの男に目をつけられては対立した。そのたびに、仲良しの友達は消えていき孤立した。
でも寂しいとか悲しいとか、そんなこと思う前に「結局、人とのつながりなんてそんなもんだ」くらいに冷めてる自分がいて。
同じ学校のヤツらも、仲良さげに見えても結局表面的なもんなんだろうなって思ってた。
あの頃の自分は、孤独によって感じる・・・まるで胸に大きな鉛でも入っているかのようなやるせない気持ちがあって。
それがいつか消えるのかさえもわからずに生きていた。そんな私でも皆と同じように時間は刻、一刻と進んでいた。
進学をする学生が通る道・・・受験。
とても無視することのできない大きな“壁”に憂うつを感じていた、高校3年生の季節がちょっと温かくなってきた時期のこと。
当時の私は友達もいない、気持ちを吐き出す相手もいないという、そんな混沌とした毎日のなかで自分の進むべき道さえわからずに「こんなおれが受験なんてできるのか?」と自問するような状態だった。
まわりからの期待や中途半端な応援は全部、全部、ウザかった。
自信もなかった私は、現状の学力でちょっと勉強すれば入学できるくらいの大学を選択し「それでいいんだ」と、なにかをあきらめていたんだ。
「なにこの人。」からすべては始まった
当時勉強がキラいだった私は、塾へ通うこととなった。
しかし大きな塾はどこも自分の性格には合わず何度も入塾してはやめる日々。
「塾なんて行ったところで、頭の悪い自分が変われるわけがない。」
それくらいにネガティブな感情をもっていた私は、塾に通う受験生へ向けて黒板の前であーだこーだと授業する先生のことを冷めた目で見ていた。
そのうち授業に出たくなくなっては「もうあの塾はやめる!」と言っては親を困らせた。ほんとに厄介な子だよね。
そんな心の荒れているときに出会ったのが、家から近くて小さな目立たない少人数制の個人塾。
数年前にできて少し話題にはなったんだけど・・・まぁどうでもよかった。
家からすぐそば、そして個別で教えてくれるという理由で入塾がたんたんと決まり、早くも翌日から通う事に。
「今日は行きたくないな」とか思ってもその塾は家から近いので、とぼとぼ歩いてるとすぐに到着してしまう。
こじんまりとした教室に、数人の先生。”コーガクレキ”の先生たちが一人一人のデスクの横につき、熱心に勉強を教えていた。
「よろしくお願いしまぁ~す」とにっこり笑い、あたかもおりこうさんのように振舞ってデスクへつく。
授業が始まるとすぐに先生がつくので、うかつにぼぉっとはできない。
「この雰囲気ちょっとダルいな~」なんて考えていたとき、部屋の端のほうから何やらひときわ“厳しく”指導する男性の声がした。
「前回覚えて来いって言うたやろぉぉ!?」
「いやいや、まて!まだ君そんな間違いしとるんかっ!!」
あきらかにその声がするほうの空気がピリピリとしているのがわかる。
私は恐る恐る担当の先生に「あの・・・あちらの先生って・・・?」と尋ねた。
すると先生は「あぁ~あの人ね。塾長先生さ。まぁ・・・人に熱心な人だよね。」と答えた。
この塾長を初めて見たのはこのとき。まさか今後とても深くかかわっていくことになるとは知る由もなかった。
その塾長は自身が日本トップの大学をでており頭はキレキレ。まわりの人間が自分よりもデキないので、人をほめるのは見たことがない。
よく、無気力感あふれるネガティブな私を小ばかにしたような言い草でムッとさせられることもあった。
当時人のことをいまいち信じる事ができなかった私はいつも「なんなんだこの人は・・・。」と思っていた。
しかしそんな私にも容赦なく”塾長ぶし”が降りかかる。
「君、休憩してるヒマあったら単語帳開きなさい。」「この参考書はなかなかいいんだよ~。さ、来週までに全部暗記してきなさい。」などという無茶を言うこともあった。
そしていつも叱ってるのか冗談なのかわからないような不器用な言葉で気持ちを奮い立たせ、自らの授業では“ビシバシ!”という擬音が、マンガのように頭の上に浮かんでいるんじゃないかというくらいに厳しく指導された。
しかし私は「今日は疲れてるから頭入ってこない。」そう言いながら塾にいる間もだんだんと自ら作った”休憩時間”をすごすため階段下の目立たないことろでサボる時間も多くなっていった。
そんなある日。私はいつものように自習室で参考書を開いていた。
すると、自習室のドアが開き誰かがゆっくりと入ってきた。その足は私のすぐ隣でとまる。
いつもの太陽のようなオーラを感じ、ハッと見ると塾長がテーブルのそばに立ち、見下ろすように私を見ている。
そして
「イチノセ君、ちょっと部屋にきなさい。」と言って、ツカツカと部屋を出て行った。
「なんだよ・・・。」と背もたれに寄りかかると力が抜け、まるで飛行機が飛び去るようなため息が出た。
人間の愛情に触れた日
当時の私は学校での人間関係もあまりうまくいっておらず、いつも気分は落ち込んでいた。そして受験前になってくるとプレッシャーに弱い私は気が立って、反抗もしたくなっていた。
塾長の発する厳しい言葉や、私にもとめられることが当時の私は「きっと自分のことが嫌いなんだな」くらいに思っていた。
それもあって塾長とは何度か部屋中の全員がバッと振り向くくらいの口論になったこともある。
でもそういうこと以外は黙ってやれる勉強だけはやってきたつもりだ。
「なんでやることやってる自分が、説教をくらわないといけないんだ。いざとなったらもう塾にだって行くのをやめてしまおうか。」
私はそんな気持ちでゆっくりと塾長の部屋へ歩みを進める。
きっと「君の志望校のランクを下げなさい」とでも言われるんだろう。まったく親には何と説明すればいいやら・・・。」
「コンコン」と塾長室のドアをノックする。すぐに「入りなさい。」という声。
塾長の近くの椅子にかけ、座るなりうつむく私。塾長はじっとこちらを見ている。
塾長はゆっくりと口を開いたかと思うと、意外な言葉を発した。
「珈琲でも、のむか?」
「・・・え?」
「今ね、冷たいのしかないんやけど。」
この時期まだ寒いけど冷たい珈琲?ていうか話したいことあるなら早く話してくれ!何、今日は機嫌がいいから話相手でもほしいってか・・・!?
そんな思考で頭がいっぱいになる私のまえに、なぜか黙って冷たい珈琲を置く塾長。
「あ・・・ありがとうござぃ。。。ス。」
なんだかうまく声がでない。
私を、いつもと違うほほ笑むような顔で見る塾長。落ち着いた口調でゆっくりと話し始めた。
「イチノセ君はさ。 自分はすごくちっぽけで力もなくて、何やってもムダだ!・・・って、思っとるやろ?」
「あ・・・僕が?いや、まぁそうかもしれないですけど。」
やっぱりと言わんばかりに背もたれにドカッと寄りかかる塾長。大きく息をついたあと、大きな顔をこちらに向けて言った。
「あのね。もぉ~うちょっとでいいけん、自分のことを信じてあげてほしいんよ。」
私は心の中で「あぁ!やっぱり説教か!」と思った。最近うだつのあがらない自分を見かねて、もっと勉強させようとしてるんだな。じゃあさっさと素直な返事でもしてこの場を去ろう。
しかし塾長はつづける。
「君の人間性とか、可能性とか、そういうの見こして言うんやけど。イチノセ君、きみF大目指してみらん?」
「え・・・??」
聞き間違いかと思った。私の地元でのF大と言えばだれもが知る優良な大学で、私がいくらがんばって背伸びをしたところで、アキレス鍵あたりがピンとつって転ぶくらいの大学だ。
「いやでも先生、僕は・・・」
と言いかける私にかぶせ、塾長はつづける。
「あんね、イチノセ君きいて。キミはこれまでに本気で勝負したことなんか、ないやろ?」
そんなこと言われたら出す言葉はない。
「・・・君はね、イチノセ君。いっちばん気づかんといけんことを、君自身がまぁ~ったく気づいとらん。」
「おれも今まで60年近く生きてきてさ、“もつべきもの”を持っとらん人は山ほど見てきた。 ほんとにつまらんヤツらをね。 でもさ、君はその辺のヤツらにない優しさとか愛情とかを持っとる。そしてそれを活かすのがめっちゃ上手なんよ。」
なんだか面と向かってそんなことを言われるとは思っていなかったので戸惑った。変な汗までジワリと背中に感じる。
「褒めてくださるのは嬉しいです・・・で、でも僕はそういう感じの人間じゃないですし・・・。」
「はぁい、はぁい!言いたのはそれだけ?」
「あ、いやそれに、僕なんかがF大になんて合格できるのかなって。。」
そう言うと、塾長は微笑みながらもキリッとした顔になり、こういった。
「イチノセ君にいいこと教えてやろうか。」
そういうと、その大きな顔を私に近づけ迫力がこれ以上にないほど増す。
「あんなぁ。どぉ~んなことでもよぉ、“やれるかな”じゃないんだ。 “やる”んだよ!」
そこまで言った塾長の顔をハッと見た私。塾長の目はしっかりと私の目をロックオンしている。
そしてこれまでそうやって頑強な気持ちで勝負に挑み続けてきた、自信に満ち溢れた塾長の真剣な顔をそこに見た。
人生の転機というのは、思わない所から来ることもあるものだ。人が人を認め手を引く事もある。そして人は自分についてを人から教わることもあるのだ。
人生多くのことは「やれるかな」と考えるんじゃない。そうではなくて「やるんだ。」という言葉をもらった私は明らかに顔が変わっていたと思う。
その場所で自分の受験勉強という、人生初の「本気の勝負」をしにいこうと決意した。
毎日学校が終わった後、日付が変わるくらいまで自習室にいる私のことをいつも館内で一人待ってくれる塾長。
いつのまにかそんな日々が当たり前のようになり、相変わらず厳しく指導してくれる塾長もどこか楽しそうだった。
私の左にいるのは誰?
充実した毎日ほど風のように早く過行くということは、学生だった私も十分に肌で感じていた。受験の日はすぐそこだ。
毎日毎日、塾への足取りには力が入り、以前よりも体が軽かった。
「もうすぐだな。」
小さい塾の中で、塾長とすれ違うときにちょっと後ろを振り返るようにしてそう言う塾長。
「塾長、おれやってやりますよ。」
そういう言葉が出るほどに自信を取り戻していた私。
どうして今まで、誰かと比べる事でしか自分の価値や可能性を測ることができなかったんだろう。
そして自分を信じることもできずいつも弱音ばかり言ってる自分と、誰が友達になろうとするだろう。
そう思いながら毎日、塾へ通う私。
もうすぐ受験の日。そして、何かが終わり、何かが始まる日。
何か大きなイベントを控えている期間というのは、その日を境にまるで天と地がひっくり返るんじゃないかというほどの感覚になる。
しかしそんな不思議な感覚をよそに、私のがんばりをぶつける日はあっという間にやってきた。
私がけっこうな背伸びをして受ける事になったF大。会場に着くと、建物が遥かにおおきく見える。
そして受験の会場って不思議な物で、まわりにいる全員が自分よりも頭が良く優れているように見えるというのはよく言ったものだ。
みんな早めにテーブルへつき、さぞ天才かのように参考書を読んでいる。きっとどんな問題だって解けるんだろう。
自分は天才とはかけ離れているし、要領はむしろ人より何倍も悪い。でも塾長が言っていたとおり“やる”しかないんだ。
そうやって自分に自信をもたせてくれた、そしてどんなときでもあきらめず一生懸命だった塾長先生。ほんとうにありがとう。
受験の日が近づくにつれ、他の先生ではなく塾長自らが教えてくれた。ちょっとだけヒイキしてくれましたよね。
いつも同じ席で勉強していた私。それをいつも左側の丸椅子で横並びになり、熱心に厳しく教えてくれましたね。
いまこの受験会場でも、あなたは僕の左側にしっかりと座ってGOODサインを送ってくれている気がする。そう、あなたはずっとずっと僕を見てくださっているんだ。どんなときも。
天使の鐘は鳴り響く
「う・・・うぁぁ~~。」
最後の受験科目が終わったあと、私はとても大きな伸びをした。
受験や大きな試験の最後、終了の鐘が鳴る音を私は「天使の鐘」と呼んでいる。必死に努力を続けてきて、発揮する対象が終了したときというのはそれくらいに透き通った鐘の音にきこえるものだ。
回答用紙が回収されると、まわりの受験を終えた人たちの波がうわっと出口へ向かう。
しかし私はバタッと倒れこんだテーブルに突っ伏したまま、しばらく動くことができなかった。
「先生ぇ~、やりきりましたっ!」と心のなかでつぶやき、みんな出て行っただろうくらいのときにゆっくりと席をたつ。
親や親せきへの電話を一通り終えた私が向かったのは家ではなく、塾。
塾長は「おぉ、おぉぉ~~来たか!終わったか!」と嬉しそうに声をかけ、試験の詳細をうなずきながら聞いてくれた。
どんなことを話したのか今となっては覚えていないが、こう言ってくれた一言だけは覚えてる。
「ほんと、お疲れ様。べつに受験終わっても勉強しに来ていいんだぞ~。」
そんなことを言って笑いあう光景を、あの頃の自分は想像もできなかっただろう。
終わることと、始まること
「朝ごはん、もういいや。」
そう言ってお皿の前でイスの背もたれに倒れる私。
「なぁんね、今日が結果発表の日やけんって。 がんばったんやったらもう今から結果がどうこうなるもんやないやろ?」
母は口ではそう言いながらもなんだかそわそわ落ち着かない様子だ。
合格発表はネット上で確認できる。数多くの受験者に割り振られたナンバー。
自分の番号を見ていると何だか自分が大量に製造されたロボットのように感じる。
発表の時間までが長いこと、長いこと・・・。
もう合格発表なんて嫌いだと思った。
PCを起動してインターネットを開くまでの、あの緊張感は身体の内臓が全部浮いてくるような気持だった。
「でも内臓が全部出てしまったなら、合格でも不合格でも関係ないか。」
そんなことを考えていると、大学のホームページが画面に映し出された。
今のご時世、やはりネットで発表を見る人は多いのだろう。つながるのが遅い。
しかし観念したのか、まっしろだった画面にまるで模様のようになった発表者の番号が映し出される。
心臓が高鳴る・・・いや、もう止まっていたのかもしれない。
下にスクロールしていくと、だんだん自分の受験番号が近くなる・・・。
・・・そして気づいたときには椅子から思わず転げ落ちた私を母が「なぁにやってんの!ほら!」と笑いながら抱き起していた。
涙の味はこんな味
母からやっとこさ抱えあげられ、しばらく呆然としていた私。
PCのキーボードを眺めていると、テーブルに置いておいた携帯のバイブでやっと我に返った。
「はっ、はいイチノセです!」
やっと応答した私の声に、すこしだけ声の大きな塾長の声。
「おぉー!イチノセ君!きみ、発表見たかい?」
「はい、いまみたところです!」
「そっかそっか!まぁ。。でもいろいろ言う前に念のためだけど、もう一度だけ確認のためイチノセ君の受験番号おしえてくれる?ほら間違いってこともあるからさっ。」
そういう塾長に、番号をゆっくりと告げる私。電話の向こう側からPCを操作する音がきこえてくる。
しばし沈黙のあと、塾長が言った。
「イチノセ君、合格おめでとう。 ほんとに、ほんとにおめでとう!!」
その塾長の声を聞いた瞬間、これまで努力してきたことが頭の中でふわぁぁ~~!!と思い出された。
塾長のことを信じられないこともあった。
自分の頭の悪さに嫌気が刺してやっぱり楽して入学できる大学に行こうかと考えたこともあった。
そして何より、こんなにも毎日努力している方向は正しいのかという不安は常に心のなかにあった。
だけど「おめでとう」という言葉をきいた瞬間にそのピンと張った糸が優しくゆるむのに気づいた。
「せ・・・せんせ。 僕、がんばるって決めて、よ、よかったでじゅ。。」
もう、うまく言葉がでてこない。
目の前が揺れ、あふれる涙が頬から顎まで伝いひざの上にぽたっと落ちてずぼんに丸い影ができるのが見えた。
すると塾長が
「イチノセ君、きみ・・・今ちょっと時間あるかい? よかったらこちらに来たまえよ。」
「わかりました」と応えて電話を切ったものの、涙が乾く様子はない。そんな私を、母は優しく抱きしめた。
珈琲の温かさを知った日
家からすぐ近くにある、通いなれた塾。
きょうは休館日なはずだが塾長はいつもの部屋にいた。
「おぉ~来たな、F大生!」
そう言って近づいていた塾長。差し出してきた分厚い手をしっかり握り、固く握手を交わした。
「ちょっとドライブでも行かんか?」
そういう塾長は颯爽と塾長室を出てカギをしめる。
毎晩、私がとても遅くまで自習室で勉強したあと、塾長はこうやってカギを閉めていたのか。真っ暗ななかカギを閉める姿が頭に浮かぶ。
外へ出ると、空は気持ちよく晴れわたりところどころに浮かぶ大きな雲は強めの風にゆったりと泳いでいた。
季節が春へと変わるとき特有のちょっと生温かいような風のなか、塾長の車に乗って坂を上り小高い丘のずっとずっと、上の方まで来た。
そして住宅街を抜けると、その一角に景色が良く見える空き地があった。
人通りはなく、すこし大きめの木があるのとその隣にベンチが2つだけ置いてある。
人がくつろぐためだけに存在しているその空き地はまるで冗談であるかのようにそこへ存在している。
良い風の吹くその公園はすごく見晴らしがいい。遠くのほうには海も見える。こんな場所があったのか。
ベンチにそっと座りそんなことを考えていると、近くの自販機のほうから歩いてきた塾長が私の左へ「ドッ」と腰かけた。
そして私の方を見て「んっ!」と言いながら差し出した手。
その手には、ホットの缶コーヒー。
お礼を言って缶コーヒーを受け取るととても温かかった。
両手で包み込むと指先がジンとして、気持ちがほっとする。
温かい珈琲というのはどうしてこうも心が穏やかになるのか。
「イチノセ君。君はよぉがんばったね。」
ハッとして先生の顔を見る。
今までは授業のなかで熱心にビシバシと教えてくれていた塾長。でもきょうは違う。
じっとどこでもない遠くのほうを眺めながら、とても穏やかに話をしている。こんな横顔、他の生徒は想像もできないだろうな。
そう考えている私に、塾長は話を続ける。
「僕がさ、F大受けろって言った日のこと覚えてる?」
「はい。しっかり覚えてます。先生が“やるんだ”って言ってくれましたよね。」
「そうそう。びっくりしたかもしれんけど、良かったやろ?」
と言ってニコッと笑う。
「あのとき、なんで君にがんばらせようとしたかわかるか?」
「う~ん。。現状に満足してたらいかん!って言いたかったんですか?」
そう言う私を一瞥し、すっと立ち上がる塾長。景色のよく見える手すりの所に立ち後姿のまま話し始めた。
「まぁそれもあるけどね。でも、そんなんみんないっしょやろ。」
大きめの身体をすこし反らせ、自分の手で持っている缶コーヒーをズズッと飲む。
そうしてゆっくり口をひらいた。
「イチノセ君はね。人に『こうしてあげたい』って思わせるような何かを持っとるんよ。」
「え。私がですか?」
「あはは!やっぱり君は自分で意識しとらんのやね!」と笑う塾長。相変わらず笑う声は大きい。
「じゃああれやね。これからの長い人生で、その他にない力が何なのかっていうのを探していけばいい。たのしみやねぇ!自分探しの旅ってやつやん!アハハ!」
そうして笑う塾長の近くに歩みより、私は塾長の前に立った。そしてスッと頭を下げて
「あの、先生。本当にありがとうございました!!」と言った。
思ったより大きな声が出て、自分でもびっくりした。
すこしの沈黙のあと塾長の口から、ほろっとした言葉がきこえてきた。
「君は、ようがんばったな。ほんとにえらいえらい。」
思わず目を大きく開き、塾長のほうを見る。
「君はな、おれが知っとる生徒のなかで一番の生徒やんッ!あ、これ誰にも言うたらいかんよ?アハハ!!」
これまでどんな人だって褒める事のなかった塾長が・・・今、ほめてくれたのか・・・?
しかもおれのことを・・・!?
そう考えた瞬間、目の前の景色がゆらぁ~っと揺れて、大粒の涙がまるで競争でもしているかのようにいくつも頬を駆け抜けていった。
「アハハ!ちょっとおまっ、そんなん、泣く事ないやろぉ~もん!!」
そういって肩をバシッとたたく塾長。その顔は少し赤らみ、目がうるんで見えたのは気のせいだろうか。
空は晴れわたり、雲がところどころにふわふわと浮いている。ここからの景色、好きだな。
そして塾長のくれた缶コーヒーをズズッと口に含む。その珈琲はそれまで飲んだ、どんな珈琲よりも温かかった。
ひゅ~んと音をたて、春のちょっと強めの風が吹いた。
その温かい風は、笑うように私の耳元を通り抜け、桜の花びらを大きく舞い上がらせた。高く、高く。ずっと高く。
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